ホーム
0
カテゴリー
グループ
コンテンツ
カート
ユーザー
絞り込む
カテゴリー
グループ
コンテンツ
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 『踊り子』 1920年 ドライポイント エッチング Henri Toulouse-Lautrec ベルネーム=ジューヌ版
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 『踊り子』 1920年 ドライポイント エッチング Henri Toulouse-Lautrec ベルネーム=ジューヌ版
150,000円(税込165,000円)
1個です。
購入数

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 『踊り子』 1920年 ドライポイント エッチング Henri Toulouse-Lautrec ベルネーム=ジューヌ版
150,000円(税込165,000円)
1920 Henri Toulouse-Lautrec "Portrait d'une danseuse"
1920年代、ロートレックが生前に遺したグラビュール原板で、最後に刷られたエディションです。これ以降は、石版リトグラフでマークが増えます。モチーフの踊り子は、ムーランルージュのダンサーでしょう。
エッチングの技法の中で最も古典的なドライポイントのみで彫りあげ複重板で刷り仕上げられています。ドライポイントのみでの陰影描写でもロートレックらしさを失わないのは、彼が元々アカデミーで基礎を修習していて線描の評価も高いことが大きいのだと思います。版元はベルネーム=ジューヌで、多くの印象派を囲っていたパリの名画廊。『ポスター芸術の先駆者』『イラストレーターの元祖』として、彼の代表作となったムーランルージュの作品群の深淵を覗ける作品だと思います。

当時の画家たちの主流は油絵でしたが、描き上げても乾かすのに時間が掛かったり、たとえ絵が1枚売れたところで満足に食べていくことが出来なかった。なので銅版を削って複写する印刷・製本の技術を応用した作品作りで食い繋いだ。製本そのものを副職にしていた画家も多かった。後にこの複写技術から生まれる作品の芸術性が高まり、銅板画専門のアーティストも生まれました。ロートレックをはじめ、当時の印象派たちはその礎を作ったと言えます。

作者・タイトル:アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 『踊り子』
版元:ベルネーム=ジューヌ版 Galerie Bernheim-Jeune
制作期:1920年代
技法:ドライポイント
コンディション: 全体的に日焼けが見られます
作品サイズ: 高さ32cm 幅24cm
額装サイズ: 高さ51cm 幅41cm
備考: 弊社で額装しました。同時代に近いくらいのアンティーク額縁です。


Henri Toulouse-Lautrec(アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック)1864年~1901年
南仏のアルビで生まれる。トゥールーズ=ロートレック家は伯爵家であり、祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる名家であった。両親はいとこ同士[2][3]で、父のアルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど、変わり者で有名であった。
トゥールーズ=ロートレックは、幼少期には「小さな宝石(仏: Petit Bijou)」と呼ばれて家中から可愛がられて育った。しかし弟が夭折すると両親が不仲となり、8歳のときには母親と共にパリに住むようになった。そこで絵を描き始めた。すぐに母親は彼の才能を見出し、父親の友人の画家からレッスンを受けるようになった。しかし13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折して[4]以降脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。胴体の発育は正常だったが、脚の大きさだけは子供のままの状態であった。現代の医学的見解では彼の症状は、近親婚に起因する骨粗鬆症や骨形成不全症などの遺伝子疾患であったと考えられている。病気により、アルビに戻ったトゥールーズ=ロートレックは活動を制限され、父親からは疎まれるようになり、孤独な青春時代を送った。
1882年にパリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は晩年まで同地で活動するようになった。なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホ、エミール・ベルナールらと出会っている。
絵画モデルであった、マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(後のシュザンヌ・ヴァラドン)のデッサンの才能を高く評価し、彼女が画家となるきっかけを作った。彼女をシュザンヌと呼び始めたのもトゥールーズ=ロートレックである。
自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感。パリのムーラン・ルージュをはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、旺盛な性欲をもとに娼婦たちと頻繁に関係を持つデカダンな生活を送った。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描いた。ロートレックは1891年からリトグラフを製作し始めた。作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも美術史上に特筆されるべき画家であり、「小さき男(仏: Petit Homme)」、「偉大なる芸術家(仏: Grand Artiste)」と形容される。また、脚の不自由だった彼は、しばしば疾走する馬の絵を描いている。彼のポスターやリトグラフは日本美術から強い影響を受けており、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインも用いた。
差別を受けたストレスなどからアブサンなどの強い酒に溺れ、アルコール依存に陥っていた他、奔放な性生活もあって梅毒も患っており、心身共に衰弱していった。家族によってサナトリウムに短期間強制入院させられた後、友人らと旅行に出た後の1901年8月20日、パリを引き払って母親のもとへ行き、同年9月9日、ジロンド県のサンタンドレ=ドゥ=ボワ(英語版)近郊にある母親の邸宅、マルロメ城(英語版)で両親に看取られ脳出血で死去した。最期の言葉は、障害を持つようになってから自身を蔑み、金品は与えたが描く絵を決して認めなかった父親に対して発した「馬鹿な年寄りめ!(Le vieux con!)」であったとされる[5]。36歳没。城の近くのヴェルドレに埋葬された。
死後、彼の作品は父親の意向により、母親と暮らしたパリでの少年時代からの親友で画商のモーリス・ジョワイヤンによって管理されることとなった。彼らによって1922年、アルビにトゥールーズ=ロートレック美術館が設立された。 ジョワイヤンはトゥールーズ=ロートレックの伝記及び、美食家であり料理人やパーティーの有能なホストだった彼の一面を紹介した『独身モモ氏の料理法』といった本を著した。現在、『独身モモ氏〜』のレシピはアルビの多くのレストランで供されている。 生家のボスク城は親しい間柄だった母方の従兄弟ガブリエル・タピエ・ド・セレイランが相続し、後にその末裔の女性によって博物館として管理されるようになった。没したマルロメ城はワインの醸造で知られている。
なお、トゥールーズ=ロートレックを扱った映画としては1952年のアメリカ映画『赤い風車』、1999年のフランス映画『葡萄酒色の人生』などがある
この商品を購入する