
1,800,000円(税込1,980,000円)
1918-25 Émile Gallé "Physalis" Art Nouveau Lustre
パート・ド・ヴェール(練硝子)の素地に、赤褐色のガラスを被せ、熟したフィサリス(和名:ホオズキ)のレリーフが腐食カメオ技法で施されたエミール・ガレ(仏)の1灯シャンデリア。
単色のレリーフが濃淡のみで繊細に表現されていて、シンプルでありながら奥行きを感じられます。
ガラス内側は3箇所電球の仕様です。サインとガラスの仕上がりから第3期、娘婿のポール・ペルドリーゼ時代(1918-1931年)の作品と思われます。作成年代は1918~1923年。ガレの天井照明は稀少です。
第3期は、ガレが残したスケッチやレシピを娘婿ペルドリーゼが忠実に再現しようとした時代です。古典的作風で技術的なクオリティーは守られていたので、実物に触れてみるとガレ生前の息づかいが感じられる良質な作品が市場に未だ残っています。 ペルドリーゼの時代は、既にアールヌーボー様式からアールデコ様式へ流行が変わっていたため 「ただ古くさい」 という扱いを受け細々と製造してました。 そのネガティブなイメージが日本のバブル期まで残って現地の受け売りで日本へ輸入されてアールヌーボー愛好家にそのまま伝染し 「3期なら買わない」 になってしまったのだと考察します。 第3期は長く過小評価の扱いを受けていたという事実に変わりはありませんが今日、本国フランスでは3期作品のクオリティーが再評価されて、1期2期と変わらない扱いをされている作品も多くなっています。価格的にはまだ手頃なものも多く、アールヌーボー照明を好きで本物を手に入れたい方にはお薦めです。
カテゴリー: 1灯シャンデリア
制作期: 1918〜1925年頃
製法: パート・ド・ヴェール、アシッドヴェール、ブロンズ
サイズ: 直径44.5cm ガラス高さ10.5cm 全長75cm
重量: 約6kg
電配線は、日本仕様に交換済みです。電球口金は、E12をお買い求め下さい。
Émile Gallé
本名 Charles Martin Émile Gallé(シャルル・マルティン・エミール・ガレ) 1846〜1904年 仏・ナンシー
1846年5月4日、フランスロレーヌ地方ナンシーで誕生。1858年にナンシー帝立高等中学校(リセ)に入学。修辞学、文学、哲学、植物学、に優れた成績を修めた。1865年の秋から67年までドイツのヴァイマルに留学し、ドイツ語の研修とデザインを修めた。1866年から67年にかけて、マイゼンタールのブルグン・シュヴェーラー社 (Burgun, Schwerer & Cie.) のガラス工場でガラス製造の技術を習得した。
1870年、プロシアとフランスの間に普仏戦争が始まり、ガレは義勇軍に志願した。1871年にプロシア軍はフランス軍を圧倒しパリに入城。敗戦国となったフランスはフランクフルト条約によりガレの故郷ロレーヌ地方の一部とアルザス全域を割譲した。退役後、父についてイギリスを訪問し、サウス・ケンジントン美術館を見学した。
1877年に父に代わって工場管理責任者となった。
1878年、パリ万国博覧会に独自に開発した'月光色'ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)や陶器を出品し、銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞。
1884年、装飾美術中央連盟主催の「石木土そしてガラス」展に出品し、金賞を受賞。1885年より、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い高島得三と交流を持ち、日本の文物や植物などの知識を得たといわれる。このような交流から、ガレは日本人の「もののあはれ」の心情を体得したと主張する日本人研究者もいるが、ガレ本人の残した文章には「もののあはれ」は触れられておらず、フランスの研究者の間では否定的な見方が主流的になっている。
1886年、ナンシーの自宅近辺に建設した家具工房で製造を開始。
1889年のパリ万博に大量の作品を出品、また自社製パヴィリオンを用意して展示作品の演出も試みた。その結果、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、家具部門で銀賞を受賞し、装飾工芸家として国際的な評価を得る。特に黒褐色のガラス素地を使用した一連の作品は評判がよかった。代表作に「オルフェウスとエウリディケ」がある。
1894年に家具工場が建つ敷地を買い増しして、ガラス製造のための工場を完成させる。1898年には「マルケトリ技法」、「パチネ素材」で特許を取得した。1900年のパリ万博に大量のガラス器、家具を出品。再びグランプリを獲得し、ますます評価を高めた。 1901年、「エコール・ド・ナンシー」(ナンシー派)の会長に就任した。1903年、パリのルーブル宮マルサン館で開催されたナンシー派展に出品。1904年9月23日、白血病により死去、58歳。
その後工房は、画家のヴィクトール・プルーヴェと夫人のアンリエットによって経営を続けた。製造品目はエッチングによるカメオ彫り製品が大半を占めた。
1914年〜18年の第一次世界大戦中に一時製造を中止。1918年には娘婿のポール・ペルドリーゼによって製造を再開したが、1931年に会社は解散。工場の敷地は売却された。
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パート・ド・ヴェール(練硝子)の素地に、赤褐色のガラスを被せ、熟したフィサリス(和名:ホオズキ)のレリーフが腐食カメオ技法で施されたエミール・ガレ(仏)の1灯シャンデリア。
単色のレリーフが濃淡のみで繊細に表現されていて、シンプルでありながら奥行きを感じられます。
ガラス内側は3箇所電球の仕様です。サインとガラスの仕上がりから第3期、娘婿のポール・ペルドリーゼ時代(1918-1931年)の作品と思われます。作成年代は1918~1923年。ガレの天井照明は稀少です。
第3期は、ガレが残したスケッチやレシピを娘婿ペルドリーゼが忠実に再現しようとした時代です。古典的作風で技術的なクオリティーは守られていたので、実物に触れてみるとガレ生前の息づかいが感じられる良質な作品が市場に未だ残っています。 ペルドリーゼの時代は、既にアールヌーボー様式からアールデコ様式へ流行が変わっていたため 「ただ古くさい」 という扱いを受け細々と製造してました。 そのネガティブなイメージが日本のバブル期まで残って現地の受け売りで日本へ輸入されてアールヌーボー愛好家にそのまま伝染し 「3期なら買わない」 になってしまったのだと考察します。 第3期は長く過小評価の扱いを受けていたという事実に変わりはありませんが今日、本国フランスでは3期作品のクオリティーが再評価されて、1期2期と変わらない扱いをされている作品も多くなっています。価格的にはまだ手頃なものも多く、アールヌーボー照明を好きで本物を手に入れたい方にはお薦めです。
カテゴリー: 1灯シャンデリア
制作期: 1918〜1925年頃
製法: パート・ド・ヴェール、アシッドヴェール、ブロンズ
サイズ: 直径44.5cm ガラス高さ10.5cm 全長75cm
重量: 約6kg
電配線は、日本仕様に交換済みです。電球口金は、E12をお買い求め下さい。
Émile Gallé
本名 Charles Martin Émile Gallé(シャルル・マルティン・エミール・ガレ) 1846〜1904年 仏・ナンシー
1846年5月4日、フランスロレーヌ地方ナンシーで誕生。1858年にナンシー帝立高等中学校(リセ)に入学。修辞学、文学、哲学、植物学、に優れた成績を修めた。1865年の秋から67年までドイツのヴァイマルに留学し、ドイツ語の研修とデザインを修めた。1866年から67年にかけて、マイゼンタールのブルグン・シュヴェーラー社 (Burgun, Schwerer & Cie.) のガラス工場でガラス製造の技術を習得した。
1870年、プロシアとフランスの間に普仏戦争が始まり、ガレは義勇軍に志願した。1871年にプロシア軍はフランス軍を圧倒しパリに入城。敗戦国となったフランスはフランクフルト条約によりガレの故郷ロレーヌ地方の一部とアルザス全域を割譲した。退役後、父についてイギリスを訪問し、サウス・ケンジントン美術館を見学した。
1877年に父に代わって工場管理責任者となった。
1878年、パリ万国博覧会に独自に開発した'月光色'ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)や陶器を出品し、銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞。
1884年、装飾美術中央連盟主催の「石木土そしてガラス」展に出品し、金賞を受賞。1885年より、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い高島得三と交流を持ち、日本の文物や植物などの知識を得たといわれる。このような交流から、ガレは日本人の「もののあはれ」の心情を体得したと主張する日本人研究者もいるが、ガレ本人の残した文章には「もののあはれ」は触れられておらず、フランスの研究者の間では否定的な見方が主流的になっている。
1886年、ナンシーの自宅近辺に建設した家具工房で製造を開始。
1889年のパリ万博に大量の作品を出品、また自社製パヴィリオンを用意して展示作品の演出も試みた。その結果、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、家具部門で銀賞を受賞し、装飾工芸家として国際的な評価を得る。特に黒褐色のガラス素地を使用した一連の作品は評判がよかった。代表作に「オルフェウスとエウリディケ」がある。
1894年に家具工場が建つ敷地を買い増しして、ガラス製造のための工場を完成させる。1898年には「マルケトリ技法」、「パチネ素材」で特許を取得した。1900年のパリ万博に大量のガラス器、家具を出品。再びグランプリを獲得し、ますます評価を高めた。 1901年、「エコール・ド・ナンシー」(ナンシー派)の会長に就任した。1903年、パリのルーブル宮マルサン館で開催されたナンシー派展に出品。1904年9月23日、白血病により死去、58歳。
その後工房は、画家のヴィクトール・プルーヴェと夫人のアンリエットによって経営を続けた。製造品目はエッチングによるカメオ彫り製品が大半を占めた。
1914年〜18年の第一次世界大戦中に一時製造を中止。1918年には娘婿のポール・ペルドリーゼによって製造を再開したが、1931年に会社は解散。工場の敷地は売却された。